[Day 11] 西涼より来たれる足跡
一月 · 星が集まる | 約三分の読み

少帝(しょうてい)辯(べん)と陳留王(ちんりゅうおう)協(きょう)の二人の幼き皇子が、洛陽北の山の麓(ふもと)の広き岩の上にて、互いに手を固く取り合いて座しおったのである。張譲(ちょうじょう)の手が、二人の児の手より解け離れたる後にてあった。張譲自らはその夜、山の小さき小川へと歩み入りて、自ら水中に顔を沈めたり。十匹の蠅(はえ)のうち、遺れる一匹がしずかに落ちたる席であった。
洛陽の夜風の内側にて、十四歳の辯が泣き始めたり。九歳の協は泣かざりき。ただ、兄の手を、いっそう固く握りしめたるのみであった。
「兄上。我らは、家へと帰り得申すか。」
協の声は小さかりしも、九歳の声にあらざりき。辯は答え得ざりき。己が肩が、燃え上がる宮の空のほうへと、傾きおりたのである。
ちょうどその時、山の下のほうより、土の匂いが昇り来たった。土の匂いの後に、皮の匂いが来たり、皮の後に、油の匂いが来たり。その後は、馬(うま)の匂いであった。一匹、二匹にあらざりき。数千匹の馬がひと度に、こちらのほうへ来たりつつあった。その馬の主は、西涼(せいりょう)の人にてあった。
その軍の頭(かしら)に立ちおる人は、躯(からだ)大きく、肩広く、眼の光が濁(にご)れる男であった。河東太守(かとうたいしゅ)の席にありながらも、実(じつ)は西涼二万の騎兵を拳の内側に握りおりたる人。隴西(ろうせい)臨洮(りんとう)の出身。姓は董(とう)、名は卓(たく)、字(あざな)は仲穎(ちゅうえい)。顔(かんばせ)が厚く、笑みが稀(まれ)であった。笑まざる代わりに、彼の口が、何ごとかを軽く噛みおる人のごとく、半(なか)ばずつ動きおったのである。
董卓が馬を止めたり。眼前の岩の上に、幼き二人の児が、互いに手を取りて座しおった。董卓の濁れる眼が先(ま)ず幼き皇帝辯のほうを向き、その後、陳留王協のほうへと渡り行きたり。董卓の声が、初めて幼き皇帝に届きたのである。
「皇上が皇上にあらせらるるか。」
幼き辯が口を開かんとしたれども、ひと言が出でざりき。唇のみが震え、息も震えたり。董卓の眼の光が、その震ゆる唇のほうにて、濁りて沈みたり。その刹那、幼き協が兄よりも先(ま)ず首を上げて、董卓を望み見たり。
「この方は、我が兄、漢(かん)の皇帝にあらせられ申し、それがしはその弟、陳留王協と申す。西涼の御方(おんかた)は遠路(えんろ)を参られて、誠に大儀(たいぎ)にござりたるべし。今宵この二人の児に出会いて下されたる御志(おんこころざし)を、我ら兄弟、忘れざらん。」
九歳の声であった。されど、その一節の文が、十四歳の兄よりもひと息速かりき。董卓の眼が、協のほうに、永らく留まりたり。

その夜、董卓の西涼騎兵が、幼き二人の児を馬の後ろに乗せたり。二人の幼き児が馬の背の後ろに座しおる姿を、二万の騎兵が、ひと度ずつ振り返り見たり。いずれの馬の上にても、音は立たざりき。されど、その沈黙は軍の沈黙にあらず、すでにひと国の運命を握りおると、自ら悟(さと)り知りたる人々の沈黙にてあった。
騎兵の頭が、洛陽の南の城門のほうへと、向き始めたり。城門より五里の外にて、董卓が馬の手綱を緩めたり。燃え上がる洛陽の西の空が、彼の兜(かぶと)に紅く映じたり。城門の物見櫓(やぐら)の上にて、一人の兵が、その兜の紅きを先(ま)ず見たり。その兵が直(ただ)ちにひと歩み後ろへと退(しりぞ)き、城門の戸を、ゆるりと半(なか)ばまで開きたり。半ばの隙間の間より、二千匹の西涼の馬がひと度に過ぎ行くには、あまりに狭き隙間にてあった。されど、その隙間をいっそう広く為(せ)よとの命が、上より下り来たる前に、兵自らの手が、先(ま)ず戸を、いっそう押し広げたのである。
そのひと度の押し広げが、ひと国のひと年(ひととせ)を開くる戸と為らんとは、その手の主も、未だ知らざりき。西涼の足跡が、漢(かん)の都城洛陽の内側へと、今日初めて、入り来たりつつあったのである。
その夜の終わる前に、洛陽の宮はすでに、ひと人のものにあらざりき。幼き皇帝辯が戻り来たった。されど、彼の隣の席に、今日初めて出会いたる一人の濁れる眼が、共に随(つ)き廻りおった。皇帝の影が二つに為るに、奇妙にも、いかなる宣言も、いかなる詔(みことのり)も、必要とせざりき。
Book 1 の十一度目の夜が、洛陽南の城門の一兵の手の前にて、しずかに深まりゆきつつあった。西涼跡(せいりょうせき、西涼より来たれる足跡)の三字が、城門の半ばの隙間の間より、しずかに種子(たねつぶ)として植えつけられつつあったのである。Day 10 の血の庭の席と、北の野原の真ん中とが、今日、都城の内側の新たなる主の足跡へと、集(つど)いつつあった。
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📌 覚え書 — 正史と演義
🟢 正史『三国志』魏書董卓伝(とうたくでん)と『後漢書(ごかんじょ)』董卓伝は、西暦一八九年九月、河東太守(かとうたいしゅ)の席にありたる董卓(とうたく、字は仲穎(ちゅうえい))が、西涼の二万騎兵を率(ひき)いて洛陽へと上り来たり、宮を脱出したる少帝辯と陳留王協の二人の幼き皇子を迎え、都城へと護衛して入り行きたることを、明らかに記す。🟢 董卓がその席にて幼き少帝にひと言を投げ、少帝が答え得ざりて、九歳の陳留王協が代わりて答えたる事の具体もまた、後漢書董卓伝のひと節に遺れり。🟡 裴松之(はい・しょうし)注のいかなる別本にも、洛陽南の城門の一兵が自ら戸をいっそう押し広げたるという具体の場面は、伝わらず。🟠 『三国志演義』第三回は、董卓の洛陽進入と二人の皇子の最初の対面の具体の構図を、劇化する。本編はその脚色の枠を圧縮しつつも、董卓の顔の「噛みおる結」と濁れる眼差しの一点に、集中したり。🔴 本編の「西涼跡」(せいりょうせき)の三字創作と、城門の半ばの隙間の間より、ひと国のひと年が入り来たるという鏡の解釈は、本編の再構成である。漢字創作の系譜が、今日、十一番目の席に到達したり。
“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
城門の戸が半ば開きたる隙間の間より、ひと国のひと年がしずかに入り来たる夜があり申す。戸をいっそう広く為(せ)よとの命が上より下り来たる前に、一兵の手が先(ま)ず戸を押し広ぐる席にござる。今宵、貴方のひと歩みの前のほうにも、命が上より下り来たる前に、己(おの)が手が先ず開きてしまう戸が、もしやおありにならぬか。その押し広げのひと結を、しずかに覗き見られてはいかがであろう。
🌍 その年、地球の反対側にては…
西暦一八九年の秋、ローマの コモドゥス のパラティヌス宮の外側の城門の夜、西のアルプス(Alpes)辺境の一軍団長が、招呼に従いて、都城ローマへと到達したりと伝わる。城門の守門将(しゅもんしょう)が、軍団長の兜の紅きを先ず見て、命が上より下り来たる前に、自ら城門の閂(かんぬき)を、いっそう少し緩めたりとのこと。ラテン語の一句「vestigium ab occidente(西より来たれる足跡)」が、その秋の城門の記録の一隅(いちぐう)に刻まれたと伝わる。東の果ての西涼の足跡が、洛陽の南の城門の半ばの隙間の間より渡り行きおりたるその夜、西の果ての軍団長の足跡もまた、同じ流儀の城門の前にて、渡り行きつつあったのである。
📅 明日 Day 12:皇帝が二人と為りたる夜
「董卓が朝廷の真ん中にて、少帝辯の廃位(はいい)と陳留王協の即位を、掲げ始めたり。ひと夜の席にて、皇帝が二人と為りつつあった。」 — 平訳家 延三欽博士
平訳 — 延三欽 平訳家 · Sam H. Yeon, Ph.D. · 延三欽博士





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