[Day 35] 絶纓之会の故事
二月 · 主なき刀 | 約三分の読み

李儒(りじゅ)が、絶纓之会(ぜつえいのかい)の故事を、入れ置きて、退(しりぞ)き去りたるその夜、董卓(とうたく)の心が、揺らぎたり。古(いにしえ)の楚(そ)の故事が、今宵、彼の書斎の文机(ふづくえ)の上に、置かれおり、その故事の教訓が、彼の愛妾(あいしょう)の席と、衝突しおったのである。
董卓が、婿(むこ)・李儒を、再び、呼びたり。「李儒。今日の故事の結が、重しと申すべし。されど、この貂蟬(ちょうせん)が、我が傍らを、離れ行かば、この相府の夜が、ひと年のごとく、長きに為らん。明日、我、郿塢城(びうじょう)に、貂蟬を連れて、移らん。郿塢の城壁の内側ならば、呂布の眼差しが、届き得まじ。」
李儒が頭を、垂れたり。「恩上(おんじょう)の御志(おんこころざし)を、奉じ申さん。」されど、そのひと言の末にて、李儒の唇の端が、しずかに、堅く成りおったのである。古き故事の教訓が、今宵、主の耳の内側へと、渡り得ざりたる席にてあった。
同じ夜、司徒王允(しとおういん)が、己が家の後園にて、ひと通の書翰を、しずかに、開きおったのである。書翰は、呂布(りょふ)の親筆(しんぴつ)にてあった。数行の簡(かん)なる内容にてあった。「今夕、相府の事、ござりたり。明日より、太師が貂蟬を、郿塢城へと、お連れ給わんと致し給う。急ぎて、お会いを、お請(こ)い申し上げ申す。」
王允が、書翰を畳みて、しずかに笑みたり。その笑みが、今暁、画戟の軌跡の後ろのほうに、しずかに、置かれおったのである。書翰に、答えを書きて、しずかに送りたり。「明日、司徒の小さき客間にて、お目に掛かり申さん。」

明けたる日の午前(ごぜん)、呂布が王允の家へと、慎重(しんちょう)に、渡り来たった。王允が門の前まで進み出(い)でて、迎えて、客間の席に、座(ざ)らしめたり。王允が先(ま)ず、口を開きたり。
「奉先(ほうせん)。李儒が、昨夜、絶纓之会の故事を、太師に入れ置きたると申すなり。太師の決断は、いかにて、ござりたるか。」
呂布が、頭を、落としたり。「太師は、わが貂蟬を、今日、郿塢城へと、お連れ給わんと致し給う。それがしの手が、ひと度も触れ得ざる城壁の内側へと、囚(とら)え置かんとの、御志(おんこころざし)にござる。」
王允が、深く息を吐きたり。さらに、低き声にて、ひと言を、上りたり。「奉先。絶纓之会の教訓は、楚荘王(そそうおう)の時代には、適(かな)いたる教訓にてござり。されど、今日、太師は、楚荘王にあらず。太師は、この故事の教訓を、ひっくり返して、お受け給わざる姿勢にござる。主が、冠纓(かんえい)を、断(た)ちて、お与え給わざる席にては、臣(しん)が、自ら己(みずか)が冠纓を、断ちて、新たなる主の席を、お探し申すべき法(ほう)にござる。」
呂布の両眼が、細く成りたり。王允が、呂布の手を、取りたり。
「奉先。今日、この王允、ひと提案を、お申し上げ申す。太師の頸(くび)の上に、戟を、お置き申し得(う)る手は、この天下に、ただ、ひと方のみに、在らせ給う。そのひと方が、貴方様にて、在らせ給う。貴方様の画戟が、太師の頸の上に、置かるる日には、天下の蒼生(そうせい)の息が、ひと度に、吐き出(い)でらるるべし。その日以後、朝廷の席にて、貴方様のお名が、宰相(さいしょう)の席に、お置かれ申すべし。貂蟬もまた、貴方様の正室(せいしつ)として、お返し申し上げん。」
呂布の手が、王允の手の内側にて、大いに、震えたり。溜息が、彼の口より、漏れ出(い)でたり。その溜息は、絶纓之会の故事を、ひっくり返して、お受け取りたる決断の、種子(たねつぶ)にてあった。
「司徒。この呂布、今日のこの席のお約束を、忘れ申さじ。明日以後の席にて、機を、捉(とら)えなば、この画戟が、必ず、太師の頸の上に、置かるるべし。」
Book 2 の五度目の朝が、王允の小さき客間の内側にて、しずかに深まりゆきつつあった。絶纓後(ぜつえいご、絶纓の故事の後の席)の三字が、古き故事が、ひっくり返されて、新たなる主の席として、読まるるひと息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 34 の 擲戟怒(てきげきど)の画戟の軌跡が、今朝、決断の種子へと、渡り来たりおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
古き故事の教訓が、主の耳の内側へと、渡り得ざりたる夕があり申す。その故事の結が、ひっくり返されて、臣(しん)が、自ら己(みずか)が冠纓を、断たしめさるる朝が、あり申す。今朝、貴方の耳の内側にも、渡り得ざりたる故事の教訓が、もしやおありにならぬか。そのひっくり返しの結を、ひと結いっそうしずかに覗き見られてはいかがであろう。





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