[Day 44] 北海のひと裾の請
二月 · 主なき刀 | 約三分の読み

曹操(そうそう)の大軍が、徐州(じょしゅう)の城壁の下に、旗を、立てたるその暁、徐州のひと人の手より、ひと張の書翰(しょかん)が、北海(ほっかい)の城門のほうへと、先(ま)ず、発(た)ちつつあった。
徐州城内に、陶謙(とうけん)が、慟哭(どうこく)を、呑み込みたり。諸(もろもろ)の官(つかさ)を、急ぎて、呼びて、対策を、議(ぎ)したり。曹豹(そうひょう)が、低く、進み出(い)でて、申したり。「曹公の勢力、大にして、恨みもまた、深く、ござる。我ら、戦うよりは、降伏(こうふく)するほうが、宜(よろ)しからん。」陶謙が、永らく、沈吟(ちんぎん)したり。降伏を以ては、民ひと人の命をも、救い得ざる相手なる事を、すでに、知りおりたのである。席のひと隅を、覗き見たり。
その席のひと隅に、座(ざ)しおりたるひと人が、立ち上がりて、拝(はい)を、上りたり。東海(とうかい)朐県(くけん)の人。姓は糜(び)、名は竺(ちく)、字(あざな)は子仲(しちゅう)。家門が、代々の富豪にてあった。
糜竺が、過ぎしある年に、洛陽に、商売の路を、行きて、戻り来たる路にて、ひと美しき婦人が、車を、共に乗らせ給う事を、請(こ)いたり。糜竺が、車より下りて、歩みて行き、車を、婦人に、譲りたり。婦人が、数里を、行きて、下りつつ、低く、囁きたり。「それがしは、南方の火徳星君(かとくせいくん)にて、ござる。上帝(じょうてい)の勅(ちょく)を、奉じて、貴方様の家を、焼かんとて、参(まい)る路にてござりたり。貴方様が、礼を以て、それがしを、お遇(ぐう)し給いたる故に、特に、あらかじめ、お知らせ申し上げ申すなり。今宵、速やかに、家へと、お戻り給いて、財物を、外へと、お移し給え。」言を、終ゆるや、婦人の姿が、消えたり。糜竺が、大いに、驚きて、馬を駆りて、家へと、戻り、財物を、急ぎて、外へと、移したり。その夜、厨(くりや)にて、火が、起こり、家が、皆な、焼けたり。
糜竺が、今日の席にて、拝を、上りつつ、計策を、献(けん)じたり。「それがし、願わくは、北海郡(ほっかいぐん)に、直(じか)に行きて、孔融(こうゆう)に、軍を、起こして、お与え給う事を、請(こ)い申さん。さらに、ひと人を、青州(せいしゅう)の田楷(でんかい)のほうへと、お遣わし給いて、救援を、お請(こ)い給え。両(ふた)つの路の軍馬が、共に至りなば、曹操、必ず、軍を、収めて、退(しりぞ)き申すべし。」
陶謙が、頭を、深く、首肯したり。糜竺が、その日、ひと匹の馬に、乗りて、北海へと、駆け行きたり。

北海の孔融は、憂愁(ゆうしゅう)の中にてあった。黄巾の残党・管亥(かんがい)が、北海を、囲(かこ)みおったのである。糜竺が、城内へと、辛うじて、入り、陶謙の書翰を、捧(ささ)げたり。「曹操が、徐州を、撃ち申すに、願わくは、公が、お救い給え。」孔融が、頭を、垂れたり。「この北海もまた、自ら、救うに、難(かた)し、徐州を、いかでか、救い得申さんや。ただ、陶謙は、それがしと、交分(こうぶん)の深きお方にて、ござれば、避け得ざる請にてござる。」
まさにその時、城内のひと人が、席より、立ち上がりたり。背の丈、八尺、単弓(たんきゅう)を、取りおったのである。名は太史慈(たいしじ)、字は子義(しぎ)。東莱(とうらい)黄県(こうけん)の人にてあった。母が、孔融の恩を、深く、受けたる故に、孔融が、危うきに、処(しょ)し給うとの報を、聴きて、遠き路を、駆けて、城内に、入り来たりおったのである。
太史慈が、孔融の前に、拝を、上りたり。「相公(しょうこう)。それがし、先(ま)ず、出(い)でて、管亥の軍を、揺るがし申さん。さらに、平原(へいげん)の劉備(りゅうび)公に、救援の請を、書翰にて、お渡し申しに、出(い)で参(まい)り申さん。劉公は、仁厚(じんこう)なる人にて、必ず、この請を、お受け給う事と、為らん。」
太史慈が、単騎(たんき)にて、城門の外に、出(い)でたり。弓ひと張を、腰に、掛けて、馬の上に、乗りたり。管亥の陣営が、彼を、囲まんと、致したり。太史慈が、弓を、引きて、十余の矢にて、十人を、倒したり。管亥の軍が、ためらいおる間に、城の包囲を、突き破りて、南の平原のほうへと、駆け出(い)でたのである。
Book 2 の十四度目の暁が、北海の城門の外、弓ひと張の上にて、しずかに、開かれたり。北海援(ほっかいえん、北海の救援の請)の三字が、ひと人の弓ひと張が、遠き都城の救援の請を、先(ま)ず、画き行きたるひと息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 43 の 父殞途(ふいんと)の倒れの後ろのほうに、今暁、弓ひと張が、別なる都城の救援に向かいて、飛び行きおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
遠き都城より、上り来たる救援の請の前にて、ひと人の弓ひと張が、先(ま)ず、包囲の内側を、突き破りて、出(い)でゆく暁があり申す。母の恩が、ひと息子の弓ひと張に、掛かりて、ひと結にて、解け行く席にござる。今暁、貴方の弓ひと張にも、古き恩のひと結が、もしや、掛かりおりたまわぬか。その掛かりを、ひと結いっそうしずかに、覗き見られてはいかがであろう。
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