[Day 65] 江淮の馬
三月 · 天下の二人 | 約三分の読み

寿春(じゅしゅん)の空しき冕旒冠(べんりゅうかん)が、地の上に、降り立ちたるその朝、ひと匹の馬が、西門の裏路に従いて、江淮(こうわい)のほうへと、駆けおったのである。
馬の鞍(くら)の上に、袁術(えんじゅつ)が、座(ざ)しおったのである。彼の懐(ふところ)の内側に、ひと欠片(かけら)の玉璽(ぎょくじ)が、握られおったのである。古(いにしえ)、孫堅(そんけん)が、洛陽の井戸の内側より、取り出(い)で来たりたる、その欠片であった。孫堅の最後の息が、その表面に、染み着きおり、今朝、僭称したる王の最後の息が、その上に、載せられおったのである。
江淮の路は、土が、わずかに、湿(しめ)りおったのである。袁術は、夜と昼とを、分けずに、駆けて、袁胤(えんいん)の席まで、辿(たど)り着かんと、致したのである。駆けゆく馬の息が、苦しく成りたり。袁術の両眼が、深く、沈み込みたり。彼の口が、低き独白(どくはく)を、漏(も)らしたり。「僭称が、ひと匹の馬の歩みよりも、短き息にてありたるな。」
馬が、川岸の低き里に、辿り着きたり。井戸の傍らにて、年経たる婆(ばば)が、水を、汲(く)みおったのである。袁術が、馬より、下りて、低く、請(こ)うたり。「水ひと椀(わん)のみ、お与え給え。」婆が頭を、上げたり。「今日、井戸には、飲むべき水、なし。永らくの旱(ひでり)の春に、ござる。」袁術が、しずかに頭を、垂れたり。彼の手が、懐の玉璽の欠片を、わずかに、握りたり。
婆が、ひと裾の黄ばみたる水を、椀に、湛(たた)えて、渡してやりたり。袁術が、その椀を、両手にて、受けたり。椀を、口の前へと、寄せたり。椀の内側の黄ばみたる水が、彼の鼻の前にて、わずかに、揺れたり。袁術が、その水を、飲み得ざりき。僭称の名を以て、ひと年(ひととせ)を、生きたる口が、ひと椀の黄ばみたる水を、飲み得ざる口と、為(な)りおったのである。
袁術が、椀を、下し置きたり。彼の喉(のど)より、ひと筋の血が、湧き出(い)でたり。馬の鞍の上にて、彼の身が、傾きたり。江淮の馬が、彼の最後の息を、担(にな)いたのである。

袁術が、馬の上より、地の上へと、降り立ちたり。彼の手が、懐の玉璽の欠片を、最後に、握りたり。その欠片が、彼の手を、離れて、地の上に、落ちたり。玉璽の欠片が、江淮の土の上に、初めて、触れたり。孫堅の最後の息と、袁術の最後の息とが、ひと欠片の表面の上に、共に、置かれおったのである。
袁胤の席より、袁胤(えんいん)の使(つかい)が、遅れて、到達したり。袁術の身は、すでに、冷えおったのである。使が頭を、低く、垂れて、玉璽の欠片を、地より、上り上げたり。玉璽の表面の浅き土が、使の手の内側にて、拭(ぬぐ)われたり。
その夜、玉璽の欠片が、使の懐に、入りて、下邳(かひ)の呂布(りょふ)のほうへと、路を、発(た)ちたり。袁胤のひと判断にてあった。「僭称の名を、捨てたる、この玉璽が、次なる主のもとへと、移り行く席として、今日、徐州の最大の勢(いきおい)の呂布の懐の内側が、最も近からん。」その判断が、後の日、下邳の水攻(すいこう)の最初の行と、為(な)りたのである。
ひと方、下邳の呂布は、己が幕屋の内側にて、ひと杯の酒を、飲みつつ、ひと張の地図を、広げ置きおったのである。江淮より、来たる使(つかい)の馬が、地図の縁(へり)に、近づきおりたのである。陳宮(ちんきゅう)が、呂布の前に、立ちて、低く、申したり。「主公。その玉璽が、主公の懐の内側に、入り来たれば、許都の曹操の刀が、下邳のほうへと、次の歩みを、お取り給う事と為らん。受けざる手も、ござり申す。」呂布が、低く、笑みたり。「受けざる手は、我が結に、あらず。」
Book 3 の六十五度目の夜が、江淮の馬の死の下にて、しずかに、深まりゆきつつあった。江淮馬(こうわいば、江淮の馬)の三字が、ひと椀の黄ばみたる水と、ひと欠片の玉璽と、下邳のほうへと、発(た)ちたる使の馬とが、ひと席に、置かれたるひと息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 64 の 寿城落(じゅじょうらく)の空しき冠の落下の後ろのほうに、今夜、僭称したる王の息が、江淮の土の上に、共に、降り立ちたり。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
僭称の名を以て、ひと年を、生きたる人が、最後のひと椀の黄ばみたる水を、飲み得ずして、馬の鞍の上にて、最後の息を、呑み込む夕があり申す。彼の懐の玉璽の欠片が、江淮の土の上に、土の結を、初めて、触れさるる席にござる。今日、貴方の夕にも、あまりに早く、懐に、お入れ給いたるひと欠片の名が、土の結に、触れゆかんとする席が、もしや、置かれおりてはおらぬか。その触れの結を、ひと結いっそうしずかに、覗き見られてはいかがであろう。





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