[Day 66] 下邳の懐
三月 · 天下の二人 | 約三分の読み

江淮(こうわい)の馬の蹄(ひづめ)が、土の上に、降り立ちたる翌(あく)る日の朝、ひと使(つかい)が、下邳(かひ)の城門の前に、当(まさ)に、到達したり。
使の懐(ふところ)の内側に、ひと欠片(かけら)の玉璽(ぎょくじ)が、入りおったのである。古き孫堅(そんけん)の井戸より、汲(く)み出(い)でたる、その欠片が、袁術(えんじゅつ)のひと年(ひととせ)を、過ぎて、今朝、下邳の城門の前に、再び、立ちおりたのである。使が、城門の内側へと、入り来たり、呂布(りょふ)の幕屋の前に、立ちたり。
陳宮(ちんきゅう)が、呂布の傍らにて、ひと歩み、先(ま)ず、低く、申したり。「主公。懐の内に、お受け給う事勿(な)かれ。この欠片は、許都(きょと)の曹操(そうそう)の刀を、下邳のほうへと、お呼び申す石にござる。使を、そのままに、お戻し給え。」呂布が、使の懐の欠片を、凝(じ)と、望み見たり。ひと息の沈黙が、幕屋の気を、ひと掴(つか)み、呑み込みたり。
呂布が、低く、答えたり。「ひと欠片の玉璽が、わが懐の内へと、来たるを、我が阻(はば)むべき結に、あらず。陳宮の言は、知りおれども、受けざるは、わが結に、あらず。」使が、懐の欠片を、取り出して、両手にて、渡したり。呂布が、両手にて、その欠片を、受けたり。孫策(そんさく)の父の最後の息と、袁術の最後の息とが、その表面の上に、共に、置かれおったのである。
その報が、許都の曹操の耳元に、達したり。荀彧(じゅんいく)が、低く、続けたり。「主公。僭称の名の欠片が、下邳の懐の内に、入り行きおり申す。曹操の名の玉璽と、呂布の懐の欠片とが、同じ天の下に、留(とど)まり得申さず。許都の次なる刀が、下邳のほうへと、方向を、お取り給わねばならぬ。」
曹操が、深く、首肯したり。郭嘉(かくか)が、低き計(けい)を、取り出(い)でたり。「主公。下邳の呂布は、力、強く、器、広うござれども、傍らの人を、永く、抱き得申さず。陳宮(ちんきゅう)は、呂布の耳元に、永くは、留まり得ず、張遼(ちょうりょう)・高順(こうじゅん)の二将は、呂布の刀の下にて、息、苦しき状態にござる。その間(あいだ)へと、ひと筋の離間(りかん)の計を、お入れ給え。呂布の懐の欠片が、自ら、傍らを、ひと欠片ずつ、解(ほど)き行く事と、為(な)り申さん。」

曹操が、低く、笑みたり。「ひと欠片の玉璽が、呂布のほうへと、自らの足にて、歩み入り行きたれば、今日より、その欠片が、呂布の傍らを、自ら、解き乱(みだ)さしむる事と為らん。」許都の詔書のひと行が、新たに、書かれたり。曹操の本軍の方向が、下邳のほうへと、取られおったのである。
ひと方、劉備(りゅうび)の小沛(しょうはい)にては、その報が、関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)の耳元に、達したり。張飛が、低き不満を、漏らしたり。「兄上。呂布が、僭称の欠片を、お受けて、懐に、お容れ給いたれば、今日より、呂布の屋根の下の我らの処遇(しょぐう)が、ひと結ずつ、危うく成り行く事と、為(な)り申さん。」劉備が、低く、答えたり。「今日は、お動き給う事勿(な)かれ。許都の詔書の方向が、下邳のほうへと、お取られ給うまでは、我らの刀は、小沛の門の内側にて、息のみを、お整え給え。」
下邳の幕屋の内側にては、呂布が、ひと欠片の玉璽を、机の上に、上り置きて、ひと杯の酒を、上りたり。その傍らに、貂蟬(ちょうせん)が、低く、座(ざ)しおりたのである。貂蟬が、低き笑みを、含みつつ、しずかに、申したり。「主君。今日、お容(い)れ給いたるこの欠片が、主君の肩の上に、重みを、いっそうに、お加え給うなり。」呂布が頭を、首肯したり。されど、彼の耳元の小さき不安は、貂蟬の低き笑みの後ろにて、隠(かく)されて、いっそうに、深く、為りおったのである。
陳宮は、その夜、幕屋の外にて、長き息を、呑み込みたり。陳宮の言が、今日、自らの主公の耳元を、過ぎ得ざりたるが、これより、下邳の長き日々の最初の行と、為(な)り申さん。陳宮の心に、李傕(りかく)・郭汜(かくし)の乱の時、曹操を、離れ来たりたる、古き己が歩みが、暫(しば)し、映じたり。その歩みが、今宵、下邳の夜の上に、再び、置かれおったのである。
Book 3 の六十六度目の夜が、下邳の懐の内側のひと欠片の玉璽の下にて、しずかに、深まりゆきつつあった。下邳懐(かひかい、下邳の懐)の三字が、使の懐と、呂布の両手と、曹操の方向の刀と、貂蟬の低き笑みとが、ひと席に、置かれたるひと息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 65 の 江淮馬(こうわいば)の息が、今宵、下邳の懐の内側へと、移り来たりおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
ひと人の懐の内側に、僭称の欠片が、入り来たる夜があり申す。その欠片を、お受けざる手も、ござりたれども、お受けの結が、その人の結なる故に、今宵、その欠片が、懐の内側へと、入り来たる席にござる。今日、貴方の懐の内側にも、お受けざる手の、ござりたれども、お受け給いたる欠片が、もしや、置かれおりてはおらぬか。その受けの席を、しずかに、覗き見られてはいかがであろう。





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