[Day 98] 徐庶のひと母
四月 · すべて捨てた夜 | 約三分の読み

許都(きょと)の程昱(ていいく)が、徐庶(じょしょ)の老母(ろうぼ)を、潁川(えいせん)より、許都へと、お迎え申し上げ給いたり。その後(のち)、ひと張の偽書(ぎしょ)が、新野(しんや)の徐庶の手に、お渡し給われたり。
偽書の最初の行に、かく、置かれおったのである。「わが子(こ)元直(げんちょく)に。この母が、今日、許都の曹将軍(そうしょうぐん)のお手の下に、お置かれ申せり。曹将軍が、わが身を、極めて手厚く、お待遇(たいぐう)給いおり申す故、汝(なんじ)のお歩みを、許都へと、お移し給いて、この母の傍(かたわ)らに、お置き給う事を、深く、お請(こ)い給う。」
徐庶が、その偽書を、お読み給いたり。彼の両眼が、大きく、見開かれたり。偽書の文字が、彼の母の文字に、似(に)ておりたのである。ただ、ひと字(じ)の折れが、母の平素(へいそ)の結と、浅く、異(こと)なりおったのである。徐庶が、低きひと息を、呑み込みたり。「許都の程昱の結が、ここに、お置かれ給いたるな。」
されど、徐庶のお気持ちは、母の身を、士(し)の道理(どうり)よりも、深く、お置き給う側にてあった。彼の身が、即(すなわ)ち、劉備(りゅうび)の席に、入り来たった。
徐庶が、低く頭を、深く、垂れたり。「使君(しくん)。今日、母の便(たよ)りが、この席に、達し申せり。この便りが、偽書なりたる事を、それがしは、知り申しおり申す。されど、この身の結は、母の身が、許都の下に、お置かれ給いたる席に、在(あ)りては、許都へと、お向(むか)い給わざる事を、お得(う)ざる結に、ござる。」

劉備が、長き沈黙を、呑み込みたり。彼の口が、低きひと言を、漏(も)らしたり。「元直。それがしは、今日のお席を、お止(とど)め給わざるを、決し申さん。母の結は、人の根(ね)に、ござる。ただ、ひとつ、お請(こ)いの事が、ござる。今日、お去り給う前に、ひと人の名を、この席に、お遺(のこ)し給え。」
徐庶が頭を、深く、垂れたり。「使君。その人の名を、今日、お遺(のこ)し給いて、お去り給い申さん。隆中(りゅうちゅう)に、若き士が、おわせ申す。彼の名は、諸葛亮(しょかつりょう)、字は、孔明(こうめい)、号は、臥龍(がりょう)に、ござる。水鏡(すいきょう)先生が、伏龍(ふくりょう)と、お呼び給いたる、ひと人に、ござる。使君。三顧草廬(さんこそうろ)の結を以て、彼を、お迎え給え。」
劉備の両眼が、大きく、見開かれたり。「元直。今日のこのひと名を、深く、胸の内側に、お記し給われたく、ござる。なにとぞ、母の傍(かたわ)らに、深く、お戻り給え。」
徐庶が、馬の上に、上りたり。新野の城門の外へと、ひと歩み、お移し給いたり。劉備が、彼の後ろ姿(うしろすがた)を、永(なが)く、お見守り給いたり。眼の縁(ふち)に、お結び給いたる露(つゆ)を、お拭(ぬぐ)い給わざりき。
Book 4 の九十八度目の夕が、新野の城門の外の後ろ姿の上にて、しずかに、深まりゆきおったのである。母書偽(ぼしょぎ、母のひと名のお偽(いつわ)りの書)の三字が、偽書の最初の行と、ひと字の折れと、徐庶のお別れのご挨拶と、諸葛亮・臥龍のひと名とが、ひと席に、置かれたるひと息の種子として、植えつけられつつあったのである。Day 97 の 庶名現(しょめいげん)のお現れが、今夕、お去り給う後ろ姿の上に、お達し給いおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
ひと人の結が、偽書なりたる事を、お知り給いつつも、母の身が、別なる結の下に、お置かれ給う席にては、その結に、お従い、お去り給わざる事を、お得(う)ざる夕があり申す。そのお去り給うの終(おわ)りに、別なる人の名を、お遺し給いて、お去り給う席にござる。今宵、貴方の夕にも、お去り給うの終りに、お遺し給うひと名が、もしや、置かれおりてはおらぬか。そのお名を、しずかに、覗き見られてはいかがであろう。
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