[Day 107] 奉孝の遺計
四月 · すべて捨てた夜 | 約三分の読み

明けたる日の夕、郭嘉(かくか)の天幕の内側の灯火(ともしび)が、最後に、大きく、お揺(ゆ)らぎ給いたり。
そのお揺らぎの前にて、郭嘉は、壁に、お凭(よ)り掛(かか)りて、お座り給いおりたのである。お座りの姿勢にてあった。お臥(ふ)し給いおる、にあらざりき。自(みづか)らの力にて、お座り給いたる、にも、あらざりき。荀攸(じゅんゆう)が、後ろにて、郭嘉の肩を、お受け止(と)め給いおりたのである。郭嘉の手は、両手にあらず、右手のみが、お動き給うを、お得(う)ところに、ござりたり。
その右手の下に、ひと幅(ひとはば)の絹が、お広げ給われおったのである。未(いま)だ、文字が、半分しか、お記し給われざる巻物にてあった。郭嘉は、昨日(さくじつ)の早きより、その絹の上に、ひと行(ひとぎょう)、また、ひと行と、自らの手にて、お記し下(くだ)し給いつつあったのである。
曹操(そうそう)が、幕を、お開(あ)け給いて、お入り給いたり。後ろに、荀彧(じゅんいく)と賈詡(かく)も、お従い給いたり。三人は、郭嘉の前に、ひと歩み離れて、お立ち給いたり。
郭嘉が頭を、上り給いたり。眼に、未だ、光が、お遺(のこ)り給いおったのである。
「主公……今日……ひとつ、お遺(のこ)り給う事の……ござる。」
曹操が、両膝(りょうひざ)を、ゆっくりと、お屈(くっ)し給いたり。郭嘉の膝の高さまで、自(みづか)らのお顔を、お降(くだ)し給いたり。
「奉孝(ほうこう)のお言葉を、今日もまた、ひと言も、お逃(のが)し給わざる。」
郭嘉の右手が、巻物の端を、曹操のほうへと、お押し給いたり。
「第一……荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)は、お座り給う人に、ござる。ひと席に、永く、お座り給う人は……その席を、お易(やす)く、お放(はな)し給わざる。お急ぎて、お討(う)ち給うこと、無きように。彼が、まづ……病に、お臥し給う事と、為(な)り申さん。」
曹操が頭を、首肯し給いたり。
「第二……江東(こうとう)の孫権(そんけん)は、未だ、二十五歳に、ござる。されど、彼の傍らには、周瑜(しゅうゆ)が、ござる。周瑜が、ござる間(あいだ)は……川を、お渡(わた)り給うこと、無きように。周瑜が……その内側にて、まづ、自(みづか)らと、お闘(たたか)い給う事と、為り申さん。それまで……お待ち給え。」
「第三……西涼(せいりょう)の馬騰(ばとう)は、彼の席に、お置き給うこと、無きように。馬騰は、自らの席にては、虎(とら)に、ござれども……許都(きょと)の席に、お呼び寄せ、お座らせ給い給わば、その席にては、ひと柄(え)の乾(かわ)きたる薪(たきぎ)に、ござる。」
曹操の両眼が、深く、沈み込み給いたり。その後(のち)、しずかに、お問い給いたり。
「奉孝、劉備(りゅうび)は。」

郭嘉の右手が、お震(ふる)え給いたり。筆が、巻物の上にて、お止(とど)まり給いたり。
「……劉備は……主公の御平生(ごへいぜい)に、ひと度(たび)も、お軽(かろ)んじ給う事、無きように。」
そのひと行を、最後に、筆が、絹の上に、お降り立(た)ち給いたり。郭嘉が、ゆっくりと、頭を、後ろへと、お凭り掛かり給いたり。荀攸が、咄嗟(とっさ)に、その肩を、いっそう深く、お受け止め給いたり。
「奉孝、もはや、お話し給う事、無きように。」
曹操のお声が、お震え給いたり。郭嘉は、頭を、僅(わづ)かに、お振り給いたり。
「ひとつのみ……いま、ひとつ……」
「お話し給え。」
「主公の拍子(ひょうし)は……既(すで)に、天下の拍子に、ござる。その拍子の内側にて、ひと度のみ、主公の人々の拍子を……まづ、お聞き給え。主公の拍子にて、主公の人を、お引き給うこと、無きように。それが……奉孝が、今日、最後に……お遺し給う……ひと自ずからの……欲(よく)に、ござる。」
そのお言葉の終(おわ)りに、郭嘉は、小さく、お笑(わら)い給いたり。眼が、まづ、お笑い給い、その後に、口が、お笑い給いたり。
曹操は、長く、お言葉なく、ござりたり。巻物の端を、片手にて、お握り給いたり。その手が、極めて軽く、お震え給いたり。彼は、自らの古き日(ひ)を、お思い起(お)こし給いたり。二十三歳に、洛陽(らくよう)の毛玠(もうかい)に、お会(あ)い給い、三十三歳に、兗州(えんしゅう)にて、荀彧を、お得給い、三十八歳に、郭嘉を、はじめて、お見給いたり。その時、郭嘉は、既に、二十六歳にてあった。初対面(しょたいめん)の席にて、曹操は、荀彧に、低く、お申し給いたり。「わが大業(たいぎょう)を、お成(な)し給う者は、正(まさ)に、この人に、ござる。」そのひと言を、お申し給いてより、既に、十二年が、過ぎ行きつつあったのである。
曹操は、巻物の上の最後の墨(すみ)の色を、お見下ろし給いたり。筆先(ふでさき)の力が、最後のひと画(かく)にて、僅かに、お薄(うす)れ給いおったのである。そのお薄れ給う画が、却(かえ)って、郭嘉の御平生を、最も、正確に、お纏(まと)め給いおったのである。頭を以て、天下を、お裁断(さいだん)給いたる三十八年の終(おわ)りに、彼の手は、主公の人を、まづ、お聞き給えとのひと行にて、お薄れ給いおりたのである。曹操は、その画の上に、指を、しずかに、お置き給いたり。お薄れ給いたる墨が、指先に、少し、お移(うつ)り給いたり。その跡を、お消(け)し給わざるまま、曹操は、手を、ゆっくりと、膝の上へと、お降ろし給いたり。
天幕の外側にて、易京(えきけい)の夏の夕の風が、再び、過ぎ行き給いたり。
内側の灯火が、いま、極めて、ゆっくりと、お小さく、為(な)りゆき給いおったのである。
巻物の上の墨の色は、未だ、お乾(かわ)き給わざりき。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
お去り給う人の最後のお言葉が、自(みづか)らを、お守り給えとのお言葉にあらず、お遺り給う人の拍子を、まづ、お聞き給えとのお言葉なる時、そのお言葉は、遺言(ゆいごん)にあらず、贈り物(おくりもの)と、為(な)り申す。今日、奉孝が、主公に、お遺し給いたるは、遼東の二つの首にあらず、「主公の拍子にて、主公の人を、お引き給うこと、無きように」とのこのひと行にてあった。もしや、貴方の傍(かたわ)らにも、今日、自(みづか)らの拍子にて、相手を、お引き寄せ給いたる席が、ござらぬか。その拍子を、ひと度のみ、相手の拍子に、お合わせ給いて、お遅らせ給うとも、宜(よろ)しき事に、ござらぬか。お去り給う人の最後の文章は、お遺り給う人の最も最初の文章と、為り給うる事、ござる。今宵、貴方の机の上に、そのひと文章が、お降り立ち給うべき席が、もしや、空(あ)きておりてはおらぬか。その席が、ござれば、いまは、何(なに)にても、お充(み)たし給うこと、無きように。未だ、お訪(おとな)い給わざる文章は、自(みづか)らの時を、お知り給い、空(あ)き席にて、いっそう正確に、お降り立ち給う事と、為り申さん。
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