[Day 130] ひと人が、お生まれ給いたる日
五月 · 三度目の戸 | 約三分の読み

単福(たんぷく)が、劉備(りゅうび)の軍師(ぐんし)の席に、お座り給いたるその明けたる日の早きにてあった。
新野(しんや)の後庭(こうてい)にて、劉備が、いつもの朝のごとく、庭を、お巡(めぐ)り始め給いたり。関羽(かんう)が、庭の西の片隅(かたすみ)にて、青龍刀(せいりゅうとう)の朝の修練(しゅうれん)を、お始め給いたり。張飛(ちょうひ)は、庭の東にて、台所の薪(たきぎ)を、お積(つ)み給いつつあったのである。三人の拍子は、いつも、然(さ)にてあった。
ところが、今朝、庭の北の片隅にて、ひと人の歩みが、いっそう、ござりたり。単福にてあった。手に、杖(つえ)にあらず、薄き書物ひと冊が、お握り給われおったのである。書物が、歩みに、お従い給いつつ、軽く、お開(ひら)き、お閉(と)じ給いたり。単福は、劉備と反対の方向にて、庭を、ゆっくりと、お巡り給いおったのである。両人の歩みが、庭の反対側にて、互(たが)いを、お擦(す)り違いに、お過り給いたり。
三巡目(さんじゅんめ)と、為(な)り給う頃、劉備が、単福の傍らに、お止(とど)まり給いたり。
「単先生。反対の方向にて、お巡り給うには、お故(ゆえ)が、ござり給うや。」
単福は、書物を、軽く、お広(ひろ)げ、お見せ給いつつ、お笑(わら)い給いたり。
「将軍の歩みと、同じ方向にて、お歩み給わば、将軍の後ろを、お従(したが)い給う事と、為り申さん。反対の方向にて、お歩み給わば、ひと巡(めぐ)りの内側にて、将軍のお顔を、三度(みたび)、お見給うを、お得(う)る、ござる。今朝、この男の、お致し給うべき事は、将軍のお顔を、三度、お見入(い)れ給う事に、ござる。」
劉備は、お笑い給いたり。お笑いが、永くは、為り給わざりき。単福のお言葉は、戯(たわむ)れにあらざりおりたのである。将軍の歩みを、後ろにて、お従い給う人と、将軍のお顔を、前にて、三度、お見給う人とは、異(こと)なる席の人にてあった。

その朝以後、新野の後庭には、四人の歩みが、ござりたり。劉備のひと巡り、関羽の刀の動き、張飛の薪の積み上げ、そして、単福の反対の方向の歩み。四歩は、皆(みな)、各(おのおの)の事を、お致し給いおったのである。ただ、四歩が、庭のひと空間(くうかん)の内側にて、互いに、お重(かさ)なり給いたる時、全体(ぜんたい)の拍子が、昨日よりも、少しく、お遅(おそ)くなり給い、その遅くなり給いたる席の内側にて、少しく、いっそう、堅くなり給いたり。
劉備ご自(みづか)らは、その変化を、お意識(いしき)給わざりおりたのである。関羽は、変化を、しずかに、お気付(きづ)き給いつつも、お申し給わざりおったのである。張飛は、薪を、いっそう、堅く、お積み給うを、お得(う)るに、為り給いたり。単福は、その全(すべ)ての変化を、書物の角(かど)に、小さき文字にて、ひと行ずつ、お記し置き給いつつあったのである。書物のお題は、ござらざりき。ただ、最初の頁(ぺーじ)に、単福の左の手の文字にて、四つの文字が、ござりたり。
新野日記(しんやにっき)。
正午(しょうご)の頃、単福が、劉備を、官衙(かんが)の西の部屋に、しずかに、お呼び給いたり。
両人が、向かい合いて、お座り給いたる机の上には、昨夕(さくゆう)、劉備が、お記し添(そ)え置き給いたる 臥龍崗(がりょうこう) 三つの文字の地図が、其(そ)の儘(まま)、お広(ひろ)げ給われおったのである。傍(かたわ)らの三つの文字 第一歩(だいいっぽ) もまた、其の儘に、ござりたり。単福が、その地図を、永(なが)く、お見つめ給いたり。その後、筆を、上り上げ給いて、臥龍崗の三つの文字の下に、小さき六つの文字を、新(あら)たに、お記し給いたり。
諸葛孔明 草廬(しょかつこうめい そうろ)。
劉備の息が、大きく、お入り給いたり。その後、永く、お出(い)で給わざりおりたのである。
「単先生。このお名を——今日、はじめて、それがしに、お降ろし給いたるな。」
単福は頭を、お首肯(しゅこう)し給いたり。
「**将軍。今日は、それがしが、そのお名の三つの文字までを、将軍に、お渡し申し上げ申さん。残りの四つの文字——草廬 二つの文字と、その後ろのお名の二つの文字——は、将軍が、お歩み給う三つの歩みの歩みの先(さき)にて、はじめて、お完成(かんせい)給うべきお名に、ござる。**」
劉備は、地図の上の六つの文字を、永く、お見つめ給いたり。諸葛孔明 草廬。 六つの文字を、声に、お出(い)で、お読み給わざりおりたのである。ただ、その六つの文字の上に、指を、お載(の)せ給いて、暫(しば)し、両眼を、お閉(と)じ給いたり。
夕の新野の客庁(きゃくてい)にて、単福が、関羽と張飛とを、前に、お置き給いて、お申し給いたるお言葉は、短かりき。
「雲長(うんちょう)将軍。翼徳(よくとく)将軍。両人におかせられては、これより、ひと月(ひとつき)の内に、樊城(はんじょう)の北のひと自(おの)ずからの博望坡(はくぼうは)の地形(ちけい)を、直(ぢか)に、お見訪(おとな)い、お戻り給うを、お請(こ)い申し上げ申す。両人のお眼が、この男のお眼よりも、その席を、いっそう、正確(せいかく)に、お知り給う、ござる。」
張飛が、腕を、お解(ほど)き給いたり。「何時(いつ)より、お行(ゆ)き給うや。」
「明日の早きより。」
「お知りえ申せり。雲長兄上(あにうえ)と共に、お行き給う、ござる。」
関羽が頭を、お垂れ給いたり。単福が、両手を、お合(あ)わせ給いたり。劉備は、傍らにて、何(なに)も、お申し給わざりき。ただ、口元(くちもと)に、極めて小さきお笑いが、お掛(かか)り給いおったのである。そのお笑いは、永く、お消(き)え給わざりおったのである。昨日までの劉備は、「関羽と張飛に、今日、何(なに)を、お命じ給うべきや」を、ご自(みづか)ら、お判断(はんだん)給わねばならぬ人にてあった。今日よりの劉備は、傍らのひと人が、代わりに、お判断給う席に、しずかに、お座り給う人と、為(な)り給いたり。その席のお安(やす)きが、四十七の彼にて、奇(く)しくも、新(あら)たかりき。
その夜、新野の屋根の上に、星が、多かりき。星の下にて、四番目の影が、しずかに、庭を、ひと巡り、いっそう、お巡り給いおったのである。
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“✒️ 平訳家の一言 — 延三欽博士(Yeon Sam-Heum, Ph.D.)
ご自(みづか)らの歩みの反対の方向にて、お歩み給うひと人が、貴方の傍(かたわ)らに、お生まれ給いたる日、その日が、貴方のひと年(ひととせ)の拍子が、少しく、お遅(おそ)くなり給い、少しく、いっそう、堅くなり給いたる、最初の朝に、ござる。その人のお顔を、ひと巡(めぐ)りの内側にて、三度、お見給うを、お得(う)給わば、三度目(みたびめ)の、お見給いたるお顔が、最初の、お見給いたるお顔と、少しく、異(こと)なるに、お見え給う、ござる。三度のお顔が、同じ方向にて、貴方の為に、お傾(かたむ)き給いおる事を、お気付(きづ)き給う朝が、その人が、お生まれ給いたる日の、真の始まりに、ござる。
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